「打ち上げ花火と、音楽」
NHKの「大曲の花火大会」を観ていた。生中継である。さすがの迫力に圧倒されてしまった。
テンポのいい打ち上げ花火を楽しんでいると、「煙のため、打ち上げを中断しています」との、会場アナウンスが流れた。どの会場も同じだなぁと思いながら、その間の火薬の匂いまでもが届いてくる気がした。まさか、それはないと思い傍らを見ると、「いいえ、私です」と、蚊取り線香が狼煙(のろし)をあげていた。周りが見えなくなってしまっていた。
数々ある花火の打ち上げで、個人的には、音楽なしが好みだ。花火師さん自身の演出であれば仕様がないが、必要最低限のものであって欲しい。「玉や」「鍵や」は、流行の音曲を使って大輪の花の解釈を、さらに意味づけを、避けたに違いない。私だけだろうか。「感動」が「感傷」になってしまうようで、なんとも心もとない。
つい最近まで、私は「万人が音楽を、歌を愛しているのだ」と思い込んでいた。気分が高揚したり落ち込んだりすれば、歌を口ずさんだり、メロディをなぞったり、ごく自然に気持ちのよい鼻歌が出たりする。しかし、軽率な判断だった。
いつの日か、雑誌の投稿欄か何かで「音楽は嫌いだ」という一文を目にして驚いた。その人は「自分は、風や雨音など自然音の方がいい」というのである。これまで、音楽と自然音を同列に考える機会がなかった私は、どっちが好きでどっちが嫌いかという発想にまず驚いた。
近頃はよく、「倍音」という言葉を耳にする。自然音のゆらぎ、「不完全であること」に共感し、癒しを感じ、相対して人工物には窮屈さを感じてしまうという感覚に近い。
花火に音楽はいらない、と述べた。なんとも極論である。信用するなかれ。自分の好きな歌手の好きな「歌」なら、良しとするのかも知れないのだ。私も「ゆらいで」いる。