その106「名人から達人、神人まで」

「名人から達人、神人まで」

バドミントン選手もテニス選手も、プロは、限りなくハエ叩きが上手に違いない。私がハエなら、決して彼らには近づかない。遠くにいても、ビリビリと糸電話のように殺気が漂ってくる。アントニオ猪木のように睨みが違うのである。彼らは「名人」である。つまり、技量の面で超有名人、名高い人だ。

ところが、達人は違う。達人には殺気がない。絵にもならない。日常に溶け込んでいて、ご同輩のハエたちはついつい油断させられる。達人は、津軽弁で言うと、バフらっとしている。ただバフらっとしているのではなくて、悟りを開いているのである。「うちのカミさんがねぇ」で、煙を巻く刑事コロンボである。そして、ハエは不意に襲われる。

聖人はもっと上を行く。「聖」は「ひじり」とも読む。自らの非を知るから「非知り」だ。「日知り」でもある。古代から、台風がやってくる季節や田植えの時期などが分かる人物は尊いとされ特別視された。なかなかもって、立派なのだ。自らの非を知っているから、優しい笑みが顔に芳香のようにこびりついている。侵すべからざる存在である。聖人は、他人の悪口は絶対に言わない。彼は一旦誰かひとりを毛嫌いすれば、そいつの悪口すら死んでも言いたくなくなる。

神人は、さらに上を行く。理解不能だ。私の悪友は宗教の勧誘に遭い「あなたは神を信じますか?」と問われ、「実は、私が神なんだよ」と返答して、撃退したそうだ。お見事である。いつも神様は見ている。私のすべてを見ている。自分には、決して嘘隠しが出来ないのは、従って、私たちもまた神様である。

・・・夏場が近付いて、ハエ叩きを手にして、つらつら思いを巡らせた。人間は考える葦なのだ。さて。悪人については、紙幅の都合で一行だけにしたい。

~泥棒は「考える足」である。逃げることだけを考えている。~