その107「間(ま)。」

「間(ま)。」

「夏がやって来た。そんな時に「花見」の話しでもないが。

所は、花見の出店。我が家は、花見会場の公園のすぐ近くにある。知り合いの家族がやっている出店に、時期が来れば毎年サンダル履きでふらりと出かけてゆく。夜ザクラ見物ならぬ、夕方ザクラだ。看板娘が稀に見るせっかちで、軽く飲んで食べて「そろそろお愛想をお願い」「はい、950円です」。小銭で足りるかどうかほろ酔い加減でジャラジャラ数えていると、目の前に50円硬貨をカチリと置かれた。支払い前にお釣りを出されるのは初めてだ。「あ?」目が合って、大笑い。千円紙幣を出すしかない。この、間がいい。

間はマモノの「マ」である、などとしかつめらしくおっしゃる方がいたが、そんな大層なものでもないだろう。落語とかコントが、一番「間」のお手本になる。楽しい人はいつも間合いがいい。そしてそこに、人好きのする人柄と信用が加わる。間は呼吸、リズムであり、使い方によっては、話しにも「深み」と「説得力」が出てくる。

同じネタでも、話し手に良い間がないとつまらない。「あいつの時は大いに受けて、俺は無視される」と不満をもらした輩がいる。それはお門違いで、全部お前さんの責任なのだ。

気が置けない友人であれば「それ、つまんないヨ」と嗤って、「不発」もひとつの愛嬌になる。肩ひじ張らないそんな普段着で話せる友人は大事である。有難いものだと思う。 

小学校の低学年の頃だった。放課後、先生からこっぴどく叱られている最中、あろうことか、教室に絶対に来るはずのない3歳上の姉が、彼女の担任の使いで不意に顔を出したことがあった。奇跡的な間の悪さ。帰宅すると、母に「あんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだった」と地獄を体験したかのように愁訴。60年前の話しである。私もしつこい。