今回は108回目である。
煩悩の数だ。108つもあれば、到底、煩悩は克服できそうにない。聖人君子への道は、煩悩をなだめるか、日夜、心を律して警戒を続けるしか、なさそうに思える。
リンカーンは、「40になれば自分の顔に責任を持たねばならない」と言った。経験は顔に出て来るからである。ねぶたは面が大事なように、やはり「顔」は大事だ。マスクをしていない限り、隠しているつもりの煩悩が如実に、にじみ出る。
文学博士の、中西進著「ひらがなでよめばわかる日本語(新潮文庫)」と出合った。顔には、目・鼻・耳・歯がある。中西氏によると、これは、植物の生長過程に当てはまるという。つまり、芽・花・実・葉である。非常に興味深い。耳は二つあるから「実×2=みみ」となる。
中西氏は、漢字だと文字そのものの意味に惑わされるから、ひらがなで読むことを推奨している。となれば、冒頭の、「ぼんのう(煩悩)」は「ほんのう(本能)」そのものかも知れない。ますます、煩悩は厄介だ。
高齢になると、目がしょぼしょぼしてくる。歯は、欠けてくる。耳は聞こえづらくなる。演劇で老人役を与えられると、真っ先に、腰の曲がりや白髪や皺メイクを考えたくなる。まぶしそうな眼の表現、ために、眉がさがって、泣いたような表情にするのは、なかなか思いつかない。今、ひとりだけ思い起こされるのは、コントの名手、ドリフの志村けんさんである。振り返れば、凄い演者さんだったと思う。
さて。話の腰を折ることになるが、顔のそれぞれの名称が植物の生長過程だったとしても、耳と同じく、目も二つあるのになぜ「めめ」にならなかったのか。いや、「めめ」は幼児語になっているのでいいのかも知れない、ではなぜ口ではなくて、「歯」に注目したのか。
この謎に挑戦してみた。結論として、きっとその植物は「くちなし(山梔子)」の花だったからだ。なんてね。