
さて。私は「ジク(意気地)なし」である。母のお墨付きだ。小学校の運動会の頃の話し。広々とした校庭の、バウムクーヘンのように白線が引かれているトラックを囲んで、クラスごとの椅子の島が並んでいた。私は島の中のひとつにいる。無邪気な女子ふたりが、私の後ろに回って、私のランニングシャツの背中の襟に、細切れの紙吹雪を入れ始めた。振り向くと、楽しそうにクスクス笑っている。私は無反応を決め込んだ。
その光景を、さらに後ろから母が見ていた。学校は我が家のすぐ隣りである、ふらりと見物に来たのだろう。後に、「あったら事されで、文句も言わないで、この童子(わらし)はナンボ、ジクなしだべ」と嘆かれた。哀れ、ジクなし少年は、今後、何を指針に生きるべきだろう。
幾星霜を経た今。書店の書棚の哲学書の中にひときわ背表紙に光芒を放つ一冊をみつけた。それは、柳生十兵衛の「柳生新陰流」だった。極意は「切らず、取らず、勝たず、負けざる流れ也」とある。相手を斬らず、刀を取らず、勝敗を意識せず。「共存」がその極意だ。「勝たず、負けず」を実践するには、相応の力量が求められる。そして、いつでも優位で居られるように、修行が続く。流祖の伊勢守は、立ち合い(試合)の際、木刀を持った相手に対して袋竹刀(割り竹に革袋をかぶせたもの)を使った。優位にあっても相手を傷つけない配慮である。勝たない、負けない。ジクなしもきっと、光の当て具合によっては輝いて見えることだろう。
似たようなことがある。「ライバルを持て」という、一方で「他人と比べるな」という。「即決せよ」という、一方で「熟慮せよ」という。どちらも一理あるけれど「アカ勝て、シロ負けるナ」の応援コールと同じで、ちぐはぐな二択だ。どちらを選んでも「いずれ分かる」と泰然としていられればいいのだが、最後まで誰も分かってくれないのが、常である。
あの運動会での出来事もそうだった。私は、女子たちにちょっかいをかけられて、密かに「嬉しかった」のである。いつまでもこんなことを記憶しているのは、母の見立てとは違う、そんな違和感からに違いない。