
歴史の傍流のさらに末端にあって、巷間で噂され続ける伝説の名物男・名物女がいる。
青森市内では、例えば、八甲田・酸ヶ湯の山の案内人だった鹿内仙人こと鹿内辰五郎(以下、敬称略)。また、屋台移動販売の飴屋で、笛を吹いたり、面白おかしく人形芝居を見せて子供たちを虜にしたヤッチヤ飴。また、お盆の時期になると夜な夜な、墓参りの人たちに踊りを披露し、対価として供物を頂戴する赤モンペ。ベルトを武器に喧嘩に明け暮れたという夜桜組のバンドのタケ、等々。実際に私が見かけたのは、赤モンペと晩年のバンドのタケの二人だけである。
以前は、ふらりと入った飲み屋さんなどで、話のついでに彼らの名前を出すと、大抵は「あぁ、あの人」という返答があったものだ。町中の人が取材相手になり得た。
鹿内仙人について、調査したことがある。下手な小説にしたので手前みそながら少しだけ詳しい。あまり知られていないエピソードに、画家の山下清との腕相撲、小説家の井伏鱒二に出会ったこと、などがある。その後、拙作を元に演劇仲間が舞台にしてくれた。仙人の御親戚や当時の酸ヶ湯の社長さん、従業員さんたちが大挙して観に来てくれた。資料を重ねた机の上から、本物の人物たちがぬっと現れた思いだった。
赤モンペはどこの人だろうか。昭和30年代のことである。恵比寿様のような恰好で、不意に墓地に現れた。彼女の特徴は赤いモンペである。また、バンドのタケは、「青森」にかけて、見かけた女子を「青(あい)ちゃん)」、男子を「森(しん)ちゃん」と呼んでいた。
ヤッチャ飴については、代議士だった淡谷悠蔵(淡谷のり子の叔父)の文章がある。「もはや伝説の人物である。どこの生まれでどこで亡くなったものか、誰も知らない」。
つい最近のことだが、奇跡が起こる。偶々我が家の近所の人だと判明。孫のK子さんから話を伺った。ヤッチャ飴の本名は白井熊七という。その姿は、武内製飴所(青森市)の、「たんきり飴」のデザイン(佐藤米次郎・画)に採用されている。