その82「大人の流儀、チップ。」

大人の流儀、チップ。

 海外旅行でわずらわしいルールのひとつに、チップがある。金額も、渡すタイミングも皆目見当がつかない。仲間たちに誘われて何度かトツクニへ借金大旅行をした経験がある。

 ニューヨークでは、ティファニーの近所に宿泊し、添乗員さんからチップは朝にベッドの枕元に置くようにとレクチャーを受けた。が、朝方のせわしさですっかり失念してしまう。有難いことに、同部屋の先輩が肩代わりをしてくれていた。彼は私の性格をよく知っている。

 フランスでは、パリ郊外をぶらぶらと単独行動した。詩人Jコクトーゆかりのメゾンラフィット駅前の喫茶店に入った。しびれるほどに心細い。窓際を陣取りメニューを指さして「これ」と、エスプレッソを頼む。じわじわと帰る時間が近付いて来る。ガイドブックの注釈通りにチップを計算して、料金に加算し渡そうとすると、店員さんは怪訝な表情で「(お金が)多い」というそぶりを見せた。お約束とは違うな、と思いながら「チップ(です)」と言うと、流暢な日本語で「どうも有難うございました」と礼を返した。地球は狭い。

 続いて青森である。劇作家の故S先生と作詞家の奥様と、さらにその御親戚一同に交じって県内の小旅行に出かけたことがあった。とある料亭でお昼をご馳走になる。お座敷を一部屋、貸し切っていた。先生はなにやら奥様に耳打ちをし、彼女は即座にバッグから財布をとり出す。まだ割られていない高級割りばしの先に千円紙幣をはさみ、先生は、それをマイクのように持って、やってきた仲居さんにすっとさし伸べた。仲居さんは突然のチップにうろたえて恐縮しきりだ。ふすまが閉じられたあと、照れ隠しかどうか先生は小声で呟いてみせた。「こうすれば、多少はサービスが良くなる」と微笑みながら。

 さりげなくチップを渡せる粋な男、伊達者を絵に描いたかのようだった。お国柄もあるのだろうが、日本では、チップは先に渡した方が良いと、この時に知った。