
年に一度の「青森ケーブルテレビフェア」。数年前、大抽選会を担当していた時、私の知人のKさんご家族が「特賞」を射止めたことがあった。けたたましく鐘が鳴る。声をかけると「これで運を使い果たした」とKさんはのたもうた。私より数歳上で、鬼才・寺山修司の運転手をしていた。変わり者であったが、まんざらこれは嘘でもない。
こういう確率による幸運は別としても、幸運な人とはどんな人なのか考えてみた。
「運の良い人」とは。ひょんなことから夢や憧れという熱源に触れて、楽しみながら、対象の「要素」を一歩ずつ手探りし始める。やがて、少しずつ体得し成長してゆく。わくわくしているから輝く。周囲に人が集まり、身丈分の果実がもたらされる。大きな夢には遠いかもしれないが、憧れの樹木の幹は太く、枝葉の方向に花を咲かせてゆく。
「不運な人」は。まずは、同じく熱源に触れる。花だけが欲しい。表面的な派手さに焦がれ方向が定まらず、あちこちと目移りがしている。勝手が分からない。幸運な人の人脈には裏があるのだと妄想して、拙い権謀術数を駆使し、人間関係をめちゃくちゃにしてゆく。自然発生的でない論理はいつかほころびが出るものである。そんな所ではないか。
話しをKさんに戻すと。一度寺山さんから「だから、お前はダメなんだ」と言われたそうだ。ほかならぬ人物から否定されたKさんは不運な人か。寺山さんの言葉に怒気が含まれていたかどうか、笑いながらだったか。事実は全く逆転してしまう。Kさんがこのエピソードを屈託なく話し出したのは、恐らく後者だろうと想像する。Kさんは幸運な人である。
美空ひばりの「愛燦燦」(作詞・作曲:小椋佳)の詞に、「人はかわいいものですね」という文句がある。笑いや涙、ねたみやそねみ、夢や絶望。それぞれがしつらえた生地の浴衣に108つの煩悩の鈴を縫いつけシャンシャンと跳ねる、灼熱の祭りの日々が続く。いずれにせよ、運の良し悪しよりも、後悔しないことと少しばかりの「充実感」があればいいか。
