スナックとも居酒屋ともつかない「K」という店があった。客層は、公務員中心の常連ばかりの店で、私もその中に入れてもらっていた。常連の中にどこかしら押しの強い勝気な「H」なるひとりの女史がいた。ある年、女史に年賀状を出そうと思った。文具店で、綺麗な賀状を見つけたのだ。美少女画で著名な中原淳一氏によるもので、浅丘ルリ子ばりの大きな瞳の少女が、色鮮やかな振りそでで羽子板を手にしている。「わたしたち、ことしもおともだちよね」と文言が添えてある。無骨な一青年からこんな年賀状が届けば勝気な女史はどんな反応を返すだろうか。
年が明け、揚々感想を聞いた。彼女はその時の状況を演じた。「かあさん、見て見て。こんな年賀状がきた!」初日の出のような幸福を届けることが出来たようだった。
後に、少年少女の頃は「おともだち」で通用するが、中高年・老齢ともなると、いささか野暮じゃないかと思うようになった。知り合い・仲間・同級生・同僚・先輩・後輩など、もっとあるだろう。かくしてこの難題に、この辺で一度、けりをつけなければならない。
恐山の南直哉(みなみじきさい)住職は、幼少時に喘息に苦しみ、常に死と向き合ってきた。その著「死を考える(河出新書)」に、究極の、友達についての興味深い解説がある。
要約すると、「『友達』は、経験や時間を共有することで、自分を認め肯定してくれる他者である。結果として『なる』のが普通で、(新たに)友達を作ろうとすれば、損得利害の思惑や、肯定されたいという欲望を双方の関係に引き込んでくる。その根底には常に『思い通りにしたい』という所有の欲望が作動している」。
深堀りしたら、ほんわかムードの友人関係にヒビが入るくらいのシビアな展開が待っていた。なにしろ相手のあることだから、普段は、辞書的な意味合い程度でやめておいた方がいいものか。「あなたには友達と言える人は何人いるの?」とは、決して聞くまい。私の場合、自嘲を込めながら、「かれこれ〇〇年の腐れ縁です」などと、けむに巻いている。
