
フランスの詩人J・コクトーは「私は地面と水平に堕ちている」と表現した。どうにも得体の知れない墜落感覚と、そのいら立ちが伝わって来る。自然の摂理にさからい、時空を超えて大胆に表現した。正確さという意味かどうか、コクトーは「詩は数字だ」と書く。
時空という点では、同じような感覚を覚えたことがある。演劇愛好家の団体に交じって、ニューヨークに出かけた時のこと。若い私にとっては借金の額も一世一代だった。確か、メトロポリタン美術館である。展示室のひとつに、なんとも無造作におなじみの絵画、ゴッホの自画像が置いてあった。その瞬間、こん棒でなぐられたような衝撃を受ける。初の異国でもあり、隣の部屋にゴッホ本人がいてもおかしくないと錯覚し、私はゴッホとは「直接会えない」と恐れた。印刷物と本物とは別物なのだと実感。あれは、何だったのだろうか。
友人から「本物を見なければ何も分からない」と言われたことがある。できればそうしたいものだが、そうなればそうで、へそ曲がりだから「家計不如意で行けない人もいる。それよりも、老齢で寝たきりの人に、行け、とはとても言えない」とやんわり否定した。
コクトーの弟子に、詩人で小説家の天才少年、R・ラディゲがいる。私の卒論のテーマだった人物である。「押し活」極まれりで、今世紀に入ってすぐ、パリ郊外パルク・ド・サンモールの、彼の家の付近まで出かけた。今はR・ラディゲ通り(アベニュー)になっている。
資料写真で見た風景が広がる。歩いて数分の場所に彼が遊んだマルヌ川がある。想像をはるかに超えて、距離感・風・匂いを肌で知る。人生で最上級の「恍惚」だった。川辺のベンチに腰を下ろし、陶酔のままマルヌの流れを眺め、「来たぞ」と呟く。
およそ百年前のモノクロ写真で見知った川辺の光景だ。現在は整備され様変わりしていて、ベンチのすぐ後ろには真新しい遊歩道があった。時代は変遷する。野球で言えば、およそ、大谷翔平とベーブルースの時代ほどの隔たりがある。
それから私はゆったりと「現場」主義になった。机上は、資料を置くか話をまとめる場所である。
