その90「十字架を背負う」

「十字架を背負う」

 受験シーズンになると思い出す。苦い思い出である。

 大学受験の準備に、前年末から最終勉強スケジュールを立てていた。一大覚悟を決めて、一日一日のノルマを無理なく無駄なく、綿密に計画したつもりだった。ところが、嘘のような落とし穴が待っていた。

 げんこつの甲の上の指のでこぼこで、大の月、小の月を交互に数えて、細心の注意で割り振りした勉強予定表の、2月の日数を全30日としてしまったのだ。直前になって気づいた。2月は28日しかないではないの。いわんや、うるう年があることすら頭から抜けていた。突然失われた大切な宝のような「2日間」だった。慣れない完璧主義は一度ひびが入ると、もろい。一気にやる気が失せてしまった。

 東京における受験日当日だった。実に心苦しい出来事があった。未だに、同期の受験生のみなさんには申し訳なく思っている。予定の一科目の試験が終わり、私はトイレに立った。どこにも顔見知りがいるわけでもない。トイレだけが自分を取り戻せる解放区だった。男子トイレの中のいわゆる個室は、一つしかなかった。何度か、ドアをノックする音がした。急がれても生理現象なので仕様がない。次の試験開始の時間ぎりぎりまで、ノックをする何某くんを待たせてしまった。そして、扉を開けて驚く。長蛇の列だったのだ。大騒ぎをするでもなく、大人しく並んでいた奥床しい紳士連中は、その後どうしただろうか。すまない。

 多くの犠牲者を尻目に、私は、からくも入学することが出来た。この罪悪感は、未だに捨てきれずにいる。入学してからというもの件の個室に入るたびに、ここの広いトイレスペースにはなぜひとつしか個室がないのだ、いつも複雑な気持ちで見まわしたものだった。

 油断するなかれ。世は不条理だ。いつかどこかで、間の悪い悪魔と出くわすかも知れない。