その77「村人Bの、独り言」

村人Bの、独り言

 雑草という草はどこにもないし、村人Aという人物もいない。村人Bは、Aの下位ではない。ましてや、その他大勢とは誰のことやら。私たちを取り巻く人間模様を考えたい。

 気が置けない友人。お互いに綽名(あだな)や「ちゃん」付けで呼び合う仲間がいる。だが、もし相手が、あなたとの一日の約束を手帳や日記に記す時に、あなたの名前に、密かに敬称を、つまり「さん」を、付けていたらとしたらどうだろうか。

 そんなメモをとる側も、自分が敬称をつけた相手にはぞんざいにはなれない、新たな「敬意」の種子を播いたからだ。長い深い人間関係の絆は、その辺りから始まるのではないか。

 もとより愚痴は湿気だ。陰口は結露のように、どんなにとり繕っても表情や態度ににじみ出てしまう。知らぬは陰口好きな本人ばかり。では、陰口を言わない「善人」はどんな人物だろうか。彼らはあるいは陰口すら言いたくないくらいに相手を嫌っているのだ。陰口は、いずれ自分に返って来る、そんな火種には関わらない。善人は思いのほか不人情である。

 私の行きつけの床屋は市外にある。以前の職場だった社屋の隣りにある。高齢の親父は聴覚障害者だ。私が行くといつも「ずっこけ」が来たと、おどけて一人でずっこけてみせる。

 5年ぶりに私の異動が決まった時。親父は、店の床に新聞紙を広げて座り、缶ビールを提供してくれた。ふたりきりの送別会だった。バス停は丁度床屋の目の前にある。やがてバスが来る。親父は、最終バスに乗り込んだ私に、道が角を曲がるまで手を振ってくれたものだ。

 月日が経って床屋に出向く。奥様が私をにらみつける。「あんたね。あの夜、うちの旦那は、そこの停留所の足下に胡坐をかいて、ずっと泣いていたんだよ。寒いから家に入れと何度言っても聞かなくて。ほんとに、まぁ」と奥様の憤りは収まらない。私は親父を盗み見た。私がとっちめられている間にも、当の親父は変わらずニコニコしていた。