その63「幻想ねぶたの記憶」

幻想ねぶたの記憶

 煌々と灯を放つ小型ねぶたの内部で、私はひとり、うたた寝をしていた。幻灯機の中に迷い込んだような非現実的な光景だ。昭和30年代、地域ねぶた運行での思い出である。前後の記憶の映像はなく、人の気配や、ねぶた囃子の太鼓や笛の音の記憶は全くない。
 武者ねぶたか赤鬼か何かの、鮮やかな朱色に包まれて、リヤカーのような台車の中の一等席を独占して、ゆらゆらと町内を進んでゆく。眠気を払うという「ねぶた」の中で眠っていたのである。妙に生々しい記憶だ。 
しかし、ねぶたの内部には発電機があって子供がもぐり込めるようなスペースはない。いつか成人して後、ありもしない夢を見て、遠い昔の記憶の形をとって実体験として刷り込まれたに違いない。原初体験ともいうべき、幼児の頃の記憶のひとつになっている。
 夢日記を御存知だろうか。興味本位で「夢日記」をつけた時期があった。深夜早朝を問わず、目覚めてすぐ枕元に置いた紙片に見たばかりの夢を記す。この実験はお奨めできない。夢の記憶が明晰過ぎて、現実との隔てがなくなるのだ。封印することにした。「あの著名人と会った。」「あの日君はこんなことを言っていた。」「私はあそこに行ったことがある。」そんな記憶の多くが虚構だったとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
 今年は、青森ねぶた祭りが中止になった。中止決定後の地域ねぶたの様子を見てみたかった。これまで電話取材ですませていた、いくつかの地域にでかける機会を得た。同年輩の知人と出会った。話題は子供の頃のねぶたになる。すると、「あの頃のねぶたは、発電機ではなくバッテリーだった。歩き疲れた子供たちは、ねぶたの中で休憩したり、寝たりしたものだ。」・・・驚いた。私のお伽噺はあっけなく現実のものになった。現地取材の妙味だ。
今後は少なくとも、自分のことは自分が一番よく知っている、とは、言えなくなった。